はじめましてホームページ管理者です。

 

長女の発症、治療、退院、社会復帰、留守番ぐみさんだったきょうだいたちの問題、ただおろおろすることしかできない長い年月でした。しかしなんとかやってこられたのは支えてくれた家族、医療者、学校の先生、そして仲間たち、の存在があったからでした。助けを求めれば必ず助けてくれる人がいました。今は助けてもらおう、そしてもし、わたしでもなにかできるようになる時がくればそのときはきっとお返ししよう と 誓ったのでした。当時この病気についてネットで検索しても闘病記が見つかるだけで網羅的な情報を得ることができず大変心細い思いがいたしました。そのような思いから 正しい情報に出会えるお手伝いができないかと2013年にホームページを開設した次第です。

 

 

長女のこと:  通常型骨肉腫

  (TNM分類 Ⅳ期)(Surgical Staging SystemⅢ期)

2001年 14才

 3 中1も終わろうとしていた3月初め、左肩の痛みを訴える。

  ちょうどインフルエンザにかかっていたこと、バスケット部に所属していた

  ことから痛みはそれらが原因だろうと気にもとめないまま、

2週間の春休みホームステイに送りだした。

  帰国後、ロッククライミング体験の企画があったが痛くてできなかったと

聞かされる。痛くて眠れないと泣いた。寝返りをした際に2段ベッドから落ちた。

    普通では考えられないことが次々起こってきていた。

  410 軽い気持ちで近医の整形外科に一人で受診させた。

夕刻医師から電話が入り「今からお母さんだけこれますか?」・・・言いようのない不安で押しつぶされそうになりながら医院を訪ねる。

   「レントゲンを撮りましたがあまり良い画像結果ではないです。

僕の見立てが間違っていることを願うのですが、市民病院を紹介しますから明日行ってみませんか?

   「・・・・。」

  411 神戸中央市民病院受診、主人と私だけ呼ばれ医師が告げた。

   「X線では骨の腫瘍と思われます。骨シンチという検査の予約をとりますので

今日は一旦帰宅してください。ベッドがあけば連絡します。」

    「骨の腫瘍?骨肉腫??」当時始めたばかりのネットで検索すると

    骨の腫瘍には『軟骨肉腫、良性骨腫瘍』という項目も見つけた。

「どうかどうかこれでありますように...」

  412日 市民病院より連絡。

   「骨シンチの予約とベッドがあきましたので明日入院の準備をして、

  きてください。」

   413(金)市民病院到着、検査:医師から結果を告げられる。

   「骨シンチの結果、悪性であることは疑えません。とても難しい治療になります。

    当院整形外科では経験がありません。治療を○○大学付属病院(京都)で

    受けられませんか?もしそれが難しければ、指示を出してもらって

当院で治療することもできますが・・・」と判断をもとめられた。

   「○○大学病院に行きます。よろしくお願いします。」

   「では紹介状を書きますね 週明けがその先生の専門外来日です。月曜日午前中に

   ガリウムシンチを撮りますのでそれを持って受診してください。

   これからきびしい治療になりますので週末は自宅へ戻ってゆっくり過ごさせて

   あげてください。」外泊

  416 朝、中央市民病院でガリウムシンチをとる。

   その結果やレントゲンフィルムなどどっさりと画像を携え14時ころ大学病院に

   到着。大学病院の整形外科腫瘍専門外来で診察。   

  「生検という手段で確定診断をしますが持参された資料を見る限り

   骨肉腫という病気ですね。また明日、入院の準備をして来院してください。」

  3時間かけて神戸中央市民病院へ帰院。

  417 朝、市民病院でCTX線を撮り市民病院は退院。

   画像等資料を携えそのまま京都へ。大学病院に到着すると小児科の先生が

   待ってくださっていて小児科病棟(~中学生)への入院となる(当時はまだ珍しい 

 連携診療が小児科と整形外科でなされていた)。

   夜、小児科主治医、小児科担当医、整形外科主治医、主任看護師、担当看護師、

   主人、わたし、娘本人(本人の意向を聞いて下さる)同席のもと

   病名、治療内容、入院期間(目安12か月とのこと)の 説明を受ける。

   家族が普通にそろった日(4月15日)を最後に長女の入院生活が始まる。

   中学生までは同伴入院が認められており、私も簡易ベッドでの寝泊まりが始まる。

  424 生検、確定診断 上腕骨osteosarcoma StageⅢ。肺転移あり

  425 大学病院のプロトコルにて術前化学療法開始(3剤併用療法の第1、

    第2クール施行)。患部の劇的な縮小と肺転移箇所の消失。

大きな希望と共に第3クールを迎えることとなる。

  6月 3クール:メソトレキセート大量療法。半日経ったところで肝酵素の

 急激な上昇がみられロイコボリン救援療法が開始。翌日血漿交換、透析となる。

 その後も救援療法で3時間ごとの50アンプルカットを担当医が続けてくださる。

 幸い肝性脳症には至らず。以後本疾患のキードラッグであるメソトレキセートは

 禁忌薬となり使用不可。再び絶望の淵に。

   以降 第1、2と同じ薬剤に戻し術前化学療法第5クールまで終了。

  8月22 手術のため整形外科へ転科。

 8月28日 腫瘍切除術および術中照射術を受ける。

    AM9時病室を出てから15時間後、執刀医が手術終了の報告にきてくださる。

    深夜、痛みに泣きながらストレッチャーにのせられ漸く病室へ戻ってくる。

    以後術後の痛みと装具装着の痛み、リハビリの痛みと格闘することになる。

 9月11日 小児科へ転科、以後5剤を組み合わせ術後6クールの治療を行う。

2002年 15才

 1月 骨癒合遷延のため超音波治療開始。

  4月2日 化学療法終了。今後予想されるPBSCT(自己末梢血幹細胞移植)のため

      CD34細胞採取を何度か試みたが十分な細胞数が得られず断念。

  4月25日 IVH抜き 

  5月16日 骨癒合がみられないため以下の手術を予定し退院となる。

      事前に本来校の担任、学年主任、保健室教師、が来院し主治医より

      学校生活での留意点などの説明を受けてくださる。

      1時限ずつ増やしながら中学校への登校開始

  5月27日、6月10日、6月24日、7月8日 外来受診

   7月25日 血管柄つき肩甲骨移植、腸骨移植術を受ける為整形外科入院。

      幹細胞採取トライも断念。

  8月23日 退院 以後 毎月(小児科+整形外科)京都へ。

     併せて関連病院地元の市民病院小児科にても毎月受診

2003年 16才~ 2か月ごとの定期検診へ

2004年 17才~ 3か月ごとの定期検診へ

2007年 20才~ 6か月ごとの定期検診へ

2011年 24才  2月 髄内釘突出部切除手術 

2012年 25才~ 1年ごとの定期検診へ                          

2016年  29才  9月  BNP(心臓機能)定期検査項目に追加∵アドリアシンによる

         晩期合併症か?

2017年 30才  9月 心エコー、心電図検査 を追加となる。

2018年 31才  9月 BNP推移注視していくことになる。

2021年 33才  

  1月 上腕患部内出血により 整形外科緊急受診 以後3か月ごとの受診  

  9月 従来の定期検診レベルに戻る。 

2022年 34才 

   6月  上腕患部貯留液滲出し発熱。内出血もみられる。

      感染が原因であるとし抗生物質の内服と患肢安静のため休業2週間

  9月  6月より著変なしにて年1回のフォローへ

  12月  再度6月と同症状発生 長期抗生剤内服指示 患肢安静 ~休業1月4日

2023年 35才 

  1月11日  発熱 患部よりの漏出液 主治医へ連絡

  1月14日  入院

  1月15日  緊急手術:髄内釘が感染を誘因しているとして髄内釘抜去、

         照射上腕骨頭の取り除き手術、感染制御目的入院

  2月10日  退院

   3月 8日  入院 

  3月10日  手術:上肢機能の保持を目的で血管柄つき腓骨を上腕照射骨に移植し

           移植腓骨を肩甲骨に固定

  4月10日  退院

  5月26日  入院 

  5月27日  手術:デブリドマン処置 固定ビス調整手術 感染制御目的

  6月23日  手術:縫合部閉鎖せず大胸筋による上腕開創部被覆術

  7月 8日  ???患肢の旋回が規定外??? 

  7月10日  CV抜去 上腕照射骨部骨折判明 超音波治療開始

  7月12日  三角巾での退院

  7月19日  固定ギブス+三角巾 での日常生活

  8月14日  外来受診 骨折部変化なし

  9月 4日  年1回の定期外来(小児科フォローアップ外来、循環器内科、も)

         &整形外科外来 骨折部変化なし

  10月2日  整形外科外来受診

  11月7日  整形外科外来受診

  11月16日 甲状腺穿刺検査受診

  11月30日 甲状腺結果説明受診

  12月12日 整形外科外来受診  

2024年 36才

  現在に至る